『推したちとどう生きるか』
なぜ日本人は推し活が好きなのか。
野球、観劇、アイドル、VTuber、アニメ、etc・・・
三宅香帆が日本社会の“熱狂のメカニズム”を歴史的文脈から解き明かし、SNS社会での持続可能な関係性を考える。
日本人にとって推し活はもはや一時の熱狂ではない。
現代の推しは、私たちに「ハレの日」を与えてくれる一方で、「ケの日常」もまたともにあることを教えてくれる。それは、この社会に広く浸透した一つの文化なのだ。
では、私たちはそんな推しと、どのように持続可能な関係性を築いていけるだろうか。
「推し活」文化の源流から令和の最前線までをひもとき、ポスト消費社会における「推しの構造」を鮮やかに読み解く。

『イン・ザ・メガチャーチ』を拝読した直後に読むのに相応しいテーマ。
三宅さんの親しみやすい文章は読んでいてすっと頭に入ってくるので、「新書はちょっと苦手…」という方にもぜひおすすめしたい一冊です。
歴史的にみて「推し活」というものが、どのように現在まで続いてきたかがわかりやすくまとめられていました。
『事業を継続していくためには世論を味方につけねばならない。
しかし、小林がターゲットにした観衆、すなわち新興中産階級は、自らの持つ前近代性から目を背けるかのように、スポーツや音楽に純粋性や規律性を求めていた。
彼らは金銭を支払い、まるで「芸妓の手でも見て居る」かのように消費しながら、見世物的消費を否定するアリバイを求めていたのである。』
見世物的消費を否定するために求められた「純粋性」。
三宅さん容赦ありません。
ああ恐ろしい。
『つまりスポーツや音楽は「純粋に頑張っている少年少女らの成長を見守っている」という建前を欲しがった。
規律正しく頑張っている彼らを、応援している。
家族で見守っている。
けしてただ性的な目で見ているわけではない。
それはお金儲けではない。
これはもっと健全な成長を見守る娯楽である。
未熟な未成年が規律正しさをもって能力を伸ばす過程を、家族で見守る。
そういう建前があってはじめて、西洋文化は近代で日本の新中間層の家庭に輸入され得たのである。
西洋文化を輸入する過程において、子どもとは、メディアそのものだった。
規律正しい良家の子どもの身体をもってはじめて、家庭の中心に西洋文化は到達することができたのだ。』
西洋文化を取り入れる流れで、野球・音楽(童謡)・宝塚歌劇団を例に、明治時代から日本が「未熟な存在(子ども)がプロフェッショナルであること」を売りに発展させてきた話には新鮮な驚きと感心がありました。
現在でも「日本は幼いということに価値を置きがち」といわれるけれど、そんな歴史的・経済的なからくりがあったからなのだなあと。(そしてその価値観が日本人に合っていたという)
『演歌の五木ひろしや森進一が成熟した歌唱で人気を博していた当時、ファンから応援される西城や郷はむしろそのアマチュアな青年らしさを人気の理由としていく。
そして彼らの人気を支えたのは、『夜のヒットスタジオ』のような「素顔」を見せるテレビ番組だった。』
当時の流行であったGS(グループサウンズ)の流れ、西城秀樹さんや郷ひろみさんが、「アマチュアらしさ」で売られていたというのは、その時代を知らない私には驚きでした。
『ディズニーと推し活』の章では、いかにミッキーが推される存在(アイドル)であるかを他から引用してきた部分が最高でした。
『ミッキーは「ご報告」「大切なお知らせ」のような不穏なワードを出してこないし、20年以上見てきているのに、昔と同じようにキレのあるダンスを踊って楽しませてくれる。
ミッキーは歳を取らない。
誕生日はあるけれど、〇歳ではなく〇回目のバースデーと数えるのだ。
歳を取らないというのがどういう事かというと、私はミッキーの活躍を最後まで見届ける事が出来ないという事になる。
ミッキーはいなくならない。
でも私はいつかいなくならなくてはいけない。
逆に言えば、私が健康で多少のお金を持ってさえいれば死ぬまでミッキーの活躍を見続けられる。
それって最高すぎるファンサービスだと思う。
(劇団雌猫『浪費図鑑―悪友たちのないしょ話―』小学館、2017年)』
なるほどなあ。
ミッキーが永遠にスターである理由がわかりました。
推し活が宗教的なものとして扱われるようになってひさしいけれど(聖地・巡礼・布教・信者・お布施・神対応・成仏・・・等)。
なぜいま、みんなが「推し」を求めるのか、その答えがここにありました。
#推したちとどう生きるか
#三宅香帆
紋佳🐻










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