『ぼくがいま死、について思うこと』


「自分の死について、真剣に考えたことがないでしょう」67歳で主治医に指摘された。

図星だった。

うつや不眠を患いながらも、死は、どこか遠い存在だった。

そろそろ、いつか来る〈そのとき〉を思い描いてみようか―。


シーナ、ついに〈死〉を探究する!

夢で予知した母の他界、世界中で見た異文化の葬送、親しい仕事仲間との別れ。

幾多の死を辿り、考えた、自身の〈理想の最期〉とは。


結婚式やお葬式といった儀式が、古来より日本国内でどのように変わってきたか、また海外とどう違うかを記した箇所はとても興味深かったです。

「日本人は墓参りのときに墓のまわりに生えた雑草をみんな抜いてしまい、かわりに切り花を供えますね。
自分らの先祖が埋葬されている墓から生まれてきた植物の新しい"命"を無造作に抜き取り、切り花という、つまりは"殺して"しまった花を供えるのは、意識としておかしいのではありませんか。
私は逆であってほしいと考えます。」

アメリカの先住民のもとで育った女性の話にはハッとさせられましたが、その習慣には、日本人らしさのようなものを感じました。


チベットの鳥葬(死者の身体を鳥に食べてもらう儀式)については、最近チベットにもスーパーなどが進出して、ジャンクフードなどが一般化して行く中で、そういったものを食べ続けた人間の遺体を味や匂いに敏感な禿鷲などが食べなくなっている、という話もあるそうで。

なんだかいろいろ考えさせられます。


チベット仏教や上座部仏教は、魂の抜けた遺体は物として扱われて「捨てる」という感覚に近いんだそう。

ただの物体となった遺体よりも、そこから解放された魂の昇天の方が大切という考え方。

そういう場合、風葬(野ざらし)や鳥葬(禿鷲や犬などにほどこす)といった儀式になり、当然「お墓」や「供養」という概念もない・・・と。

でもゾロアスター教では「遺体は最も汚れたもの」という考え方で、燃やせば火や大気を汚し、土葬は大地を汚す。

だから、鳥葬で禿鷲にたべさせるんだそう。

同じ鳥葬でも、チベット仏教とは全く考え方が違うんですね。


ポリネシア、ポルネオ、フィリピンで行われる水葬の一種、「舟葬」。

同じ舟葬でも、北欧のバイキングの古代権力者の葬式では、その権力者の遺体と「女奴隷」が火を放たれて流されたり、インドのサティでは先に亡くなった夫と「その妻」(生存者)が共に流される儀式が存在していたり。

日本でもその昔、亡くなりそうなお年寄りを舟で流す「うばすて海」のようなことをしていたんだそうで。

生きたまま舟で流される人のきもちとは、一体どのようなものだったのか・・・

想像を絶するとはこのことですね。


日本のお葬式や火葬、お墓参りといった『当たり前』を、改めて見直す機会になりました。

文化人類学系の本、やっぱり好きだなあ。


紋佳🐻

読書