『くもをさがす』


カナダでがんになった。

あなたに、これを読んでほしいと思った。

これは、たったひとりの「あなた」への物語ー

祈りと決意に満ちた、西加奈子初のノンフィクション。

『くもをさがす』は、2021年コロナ禍の最中、滞在先のカナダで浸潤性乳管がんを宣告された著者が、乳がん発覚から治療を終えるまでの約8 ヶ月間を克明に描いたノンフィクション作品。

カナダでの闘病中に抱いた病、治療への恐怖と絶望、家族や友人たちへの溢れる思いと、時折訪れる幸福と歓喜の瞬間―。

切なく、時に可笑しい、「あなた」に向けて綴られた、誰もが心を揺さぶられる傑作。


『自分で調べて、医者任せにしないこと』

『自分の身は、自分で守るの』

カナダと日本の医療体制の違いに戸惑いつつ、仲間や家族に支えられながら、乳がんを治療する西さんのエッセイ。

抗がん剤治療中にもかかわらずコロナに感染された話や、コロナ禍でそもそも病院を受診できないといった話は、読んでいるだけで胸が痛かったです。


30冊以上に及ぶ書籍等からの引用は、その瞬間に西さんが必要とした、共鳴した言葉ばかり。

『ヴァージニア・ウルフは本を読むことについて、こんな風に言っている。

「それはまるで、暗い部屋に入って、ランプを手に掲げるようなことだ。光はそこに既にあったものを照らす。」

似たようなことを、ウィリアム・フォークナーも言っている。

「文学は、真夜中、荒野のまっただ中で擦るマッチと同じだ。マッチ1本では到底明るくならないが、1本のマッチは、周りにどれだけの闇があるのかを、私たちに気づかせてくれる。」』

読み返す度に、響く頁が変わってきそう。


自分の身体が変わってしまうこと(胸を失うこと)に関しての西さんの葛藤と決意は、ジェンダー論を超えて、「自己とは」というところに帰結していて、さすがだなと思いました。

『イズメラルダと話をしていると、乳房を、そして乳首を失うことなど、生きてゆくのに何も関係がないように思えた(そう、まるでつけまつ毛か何かについて話をしているようだった)。

私たちはどのような状態であっても、自分自身の身体で生きている。何かを切除したり、何かを足したりしても、その体が自分のものである限り、それは間違いなく本物なのだ。本物の私たちの身体を、誰かのジャッジに委ねるべきではない。これからも本物の自分の人生を生きてゆくために、私は自分の、自分だけが望む声に耳を澄ますことにした。そしてその声は、自分にはもう、乳房も乳首も必要ないと言っていた。』

器に過ぎない自分の身体。

そのオーナーは自分。

「本物」は、形が変わっても「本物」なのだ。


子どもの食事に対して、うるさく言わないことを「リラックス」と表現しているところが素敵でした。

『子供の食に関しては、皆、とてもリラックスしているように思えた。

例えば学校のランチ時間も40分と短い上に、遊びの時間も含まれている。ランチを食べた人から遊んでいいのだが、そうなると全然食べない子供も出てくる。一刻も早く遊びたいからだ。

でも、教師が「食べない」ことを注意することはない。食べたいなら食べればいい、食べたくないなら食べなければいい。それは彼らの意思なのだから。

給食を全て食べ終わるまで絶対に席を立ってはいけなかった自分の小学校時代が信じられなかった。食べられない子は、掃除の時間に教室の隅で、ずっと席に座らされていた。それがトラウマになっている友人もたくさんいる。』

「本人の意思」をどこから尊重するのか。

「親の責任」との折り合いは、どこでつけるべきなのか。

1歳児ともうすぐ4歳児の母として、考えさせられます。


西さんの言葉って、すごく「人を殴るちから」があると思っていたのですが(褒めている)、なるほど、柔術とキックボクシングをされるんですね。

生きぬくつよさは、言葉にあらわれる。


紋佳🐻

読書