『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。』


「34歳のときに治らないがんの告知を受けた。後悔はない。
それは、すべてを自分で選んできたからだ。生きにくさを感じている人に、生きやすさを感じてもらえることを願って―。」

家族、友人、仕事、お金、自分の居たい場所、そして生と死。

命を見つめ続けてきた写真家が、大切にしてきた「選ぶ」ということ。

自らが取材したがん患者や、患者の関係者たちとの対話を通して見えてきたもの。

最後に選択するという安楽死について。

生きにくさを超えるために、自ら「選びとる」ことの意味を、強くやさしいことばで綴る。


『がんという病気は、患者と家族のこころを蝕んでいく。』

身内ががんになったという不幸自慢、悲劇の主役気取り、よくわからない宗教にのめり込む親・・・etc.

がん患者さんにとって一番厄介な『加害者』は、SNS上で攻撃してくる匿名の誰かではなく、身内である、ということに、衝撃を受けました。

だからこそ、家族は「選択していい」。

情だとか恩義だとか・・・親・親戚を大切にしないなんておかしい、と非難される風潮のある日本ですが、「自分で選んでいない親」と、100%馬が合うだなんて、運がいいとしか言いようのない偶然ですよね。

その点、「最小の家族単位は『パートナー』である」という考え方、とても合理的だし、健全です。


世界で認められている「安楽死」の話が興味深かった。

がんの中でも壮絶な最期を迎えるという多発性骨髄腫。

奥さんや息子さんにトラウマをのこしたくない、という幡野さんの考え方、とても尊いと思います。

『スイスやオランダで安楽死を選択している人の多くは、自分の人生やその最期について、十分な満足感を持って亡くなっていくのだという。

「これ以上生きていたくない」という消極的な理由から安楽死を選んでいるのではなく、
「この状態のまま、いまのわたしのまま、最期を迎えたい」という肯定的な理由から安楽死を選ぶのだ。』

自殺とは異なり、肯定的な理由から選ばれる安楽死。イメージが変わりました。


また、まだ安楽死の認められていない日本で、『セデーション』というものがあることも初めて知りました。

医師によって鎮静剤が投与され、意識レベルが低下することで苦痛から解放され、そのまま(多くの場合数日で)最期を迎えるという措置。

ただし、希望しても医師によっては、様々な理由によって対応して貰えない場合も多いらしく、安楽死とはやはり異なるのだそうです。


死と向き合うということは、生きることと向き合うことだった、と仰る幡野さん。

常々「死」について、「自分が死んだあとの世界」について考える度に、無気力になってしまう私に、一本、柱をたてていただいたような、そんな心地がしています。


紋佳🐻

読書