『中動態の世界 意志と責任の考古学』


自傷患者は言った「切ったのか、切らされたのかわからない。気づいたら切れていた」。

依存症当事者はため息をついた「世間の人とは喋っている言葉が違うのよね」。

当事者の切実な思いはなぜうまく語れないのか。

語る言葉がないのか。

それ以前に、私たちの思考を条件付けている「文法」の問題なのか。

若き哲学者による《する》と《される》の外側の世界への旅はこうして始まった。

ケア論に新たな地平を切り開く画期的論考。


高校時代の友人とのリモート呑みの中で、『中動的』であるということに関して友人が言及していたのが気になって、手にした本。

能動と受動の対立が、いかに当たり前のものとして教育されているか(己がいかに当然のパースペクティブとして認知しているか)を思い知りました。

そもそも古代ギリシャ時代から、インド=ヨーロッパ語においては、能動態と中動態こそが対立関係にあって、受動態は中動態の派生形として後に二次的に発展し、独立したもの。

・・・という文法研究の歴史に、大いにショックを受けました。

てっきり「中動態」って、最近誰かが言い出した新しい動詞体系なんでしょ?って思ったので。

(言語学科出身者として反省)


能動と中動が対立していた当時は、『意志』が存在しなかった(言語的に表面化していなかった)、だから現代の我々にはなかなかピンと来ない話だし、中動態の衰退の歴史は必然だった・・・すごく面白い。

日本語にもかつて、中動態をつくる「ゆ」という表現があって(「見ゆ」、「聞こゆ」など)、それが「いわゆる」(言う)、「あらゆる」(有る)といった言葉はその名残である、というお話も面白かったです。


『抑圧と矛盾を抱えていない言語は存在しない』

言語学(言語史)の沼は深いのである・・・。


紋佳🐻

読書