『自己流園芸ベランダ派』


「試しては枯らし、枯らしては試す」。

都会のベランダで営まれる植物の奇跡に右往左往。

『ボタニカル・ライフ』に続く植物エッセイ。


いとうせいこうさんの園芸好きを、初めて知りました。

植物への愛が溢れるエッセイです。


『自分のことは造語で勝手に「ベランダー」と呼んでいる。庭を持つ「ガーデナー」と区別をつけているのだ。
断っておきたいが、特にガーデナー諸氏と敵対関係にはない。ただ、やっかみだけはおおいにある。』

言葉の端端に現れる、いとうさん節がたのしい。


『花というものは、日の光が差し込む方を向きがちである。葉にしても同じだ。
この当たり前の事実が、ベランダ園芸家をおおいに悩ませることになる。(略)
俺が水をやり、肥料をやり、風から守ろうと添え木までしてやったにもかかわらず、ベストポジションはお日様が独占。
親の心、子知らずとはこのことだ。』

植物を子どもに例えたり、人間に例える辺りに、深い愛情を感じますね。


『これまで二度もリンドウを買い、開花を体験することなく終わっていた。
紫色の蕾がびっしりと突き出たリンドウの鉢は、あまりに魅力的である。
しかも、蕾の量からするとアンバランスなほどの小鉢で売られているのが常で、つまり"お得感"に満ちている。ケチ心を刺激する。』

リンドウは「ケチ心」を刺激する、だなんて、考えたこともありませんでした。

そんな表現もまた個性的。


『俺は雑草を抜かない。それどころか、むしろ大いに歓迎する方針だ。
俺にとっては、雑草も立派な寄せ植えの一部なのである。
買ってきたわけでもないのに、ひとつの鉢に二種類以上の植物が育つ。実にお得な寄せ植えだ。』

我が家の花壇も、かわいい雑草は放置し、育てているので、親近感がわきました。


枯らした、失敗したエピソードが多めのエッセイでしたが、まとめで仰っているように、枯らしてしまっても、それは、「自然を支配することはできない」ということであり、その気づきを繰り返すことこそが、園芸である。

この考え方、とても真似したいと思いました。

私も、花壇や畑で失敗してしまっても、残念な気持ちを、自然とつきあうことの難しさ、奥深さに変えていこうと思います。


紋佳🐻

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